novel

人の降る街
― The forgotten diary ―

些谷将臣

酒に酔いしれた人々が溢れる時間帯。
平坦な日々を過ごしていながら、なぜだか溜まっていく疲れと鬱憤を覚えた誰かがくりだした街。
人の波を縫い、逆らうようにして歩いていると、一軒の居酒屋に辿りついた。
振り返り見上げれば、赤や紫の過激な色が折り重なって、宵闇の中どす黒く夜空を覆う高層市の舟底。またの名を中層天蓋。
気が付けば また一つ溜息をこぼしていた。
店内に足を踏み入れると、外にも増して騒がしく声を張り上げて会話する男、女達。
そんな様子に、もうどうでもよくなったか。いい加減な接客で出迎えた店員について奥の席に着くと、酒をオーダーする傍ら、メニューの横に置き忘れられた一冊の書物が目にとまる。
開いて見てみると、どうやら日記のようだった。
しかも、それほど古くは見えない紙面。


ミカエル十八年。四月五日。
 
この日、最下層で生まれた私の娘は旅立った。
私の手を離れ、彼女の母が生まれた街へ。
 
高層市で貴族達の家畜として扱われていた彼女の母は、視力を奪われ下層に落とされ、私と出会った。
そして私は美しい声を持ったあの人のためにこの想いを歌にして送り、あの人は歌い続けてくれた。
しかし、そんなあの人を侵していた病魔は、いつしか私のもとからあの人を奪い去っていき。私はその現実に堪えかね、この最下層まで落ち荒んだのだ。
 
あの人を失ってからというもの、歌を作る事など何の意味も持たないと思っていたが。どうだろう。
今の私は岩肌を伝って落ちてくる雫を見上げ、スモッグが空を覆う煙たい地上の更に上にある街に吹き付ける、冷たい風を遠い記憶の片隅で感じながら、それを肌に感じている頃であろう彼女を想い、昔を振り返っている。
 
今なら伝えられるだろうか。
彼女が私のもとから旅立ったあの日に言えなかった、言葉に出来なかったこの想いを。
今ならあの人の歌声がなくとも、届けられるだろうか。
全て消えてしまえば、遠い闇と溶け合ったあの人と再び一つになれるだろうと言った私に、そんな事は無理だと、貴方の想った人は貴方の考えているような場所にはいないと言って涙を流した彼女に。
 
どんなに苦しみ、悲しむしても。それが人を愛するのに必要な事なら、それはなくてはならないものだと。醜い世界にある愛というものに、夢を求め続けたあの人の言葉をかりて。
 
娘よ。君が行った道を私も辿ろう。
そしてあの人以外の誰かの声を借りてでも、この想いを君に、この世界であの人や君のように夢を追い求め歩むべき道を探し続ける旅人のために、私は再び歌を作ろう。
君が求めるものは苦渋の中にあって、決して君の目には見えない。
しかし、君がもし夢の中にその姿を見出す事が出来たなら、どんな暗闇の中でも、きっといつか君はそれを手にする事が出来るだろうと。
 
私は忘れていたよ。
いつの日の事だったか…そう書き記した私の歌に、あの人が微笑んで「素敵ね」と言ってくれた事を…。



そしてそれは、書き記されていたうちの一番最後にあたるものだった。
読み終えると、オーダーした酒が丁度よくテーブルに置かれる。
しかし、グラスを手に取ってそれを口にする直前。先日、電車の中で仮眠していた誰かの顔に広げて載せられていた、新聞の片隅の記事をふと思い出した。確か、とある事件に加え、最近になってまた更に下層の反乱組織の勢力が増してきているとの内容だった。
この文書を読んだ限りでは、これを書き記した人物は最下層にいたようだが。
もしやこの人物も、下層の反乱組織に組した者ではなかろうか。
いや、それとも考えすぎだろうか。
いずれにしろ、どうでもいい事ではあるが…。
 
重要なのは、これを読んだ誰かがその意味をどう感じ、どう受け取るかだ。
とりあえず今は、この日記を見た『誰か』の内の一人として、日記の持ち主とその娘の安否を祈る側の人間であろうと思う。
 
中層市民らしからず。
きっと他の誰かの反感を買う事にもなるのだろうが。
酒に酔いしれた人々が溢れる時間帯。
平坦な日々を過ごしていながら、なぜだか溜まっていく疲れと鬱憤を覚えた誰かがくりだした街。
気が付けば また一つ溜息をこぼしていたくらいにしておいて。




置き忘れられた日記…それを手にして読んだ誰かは密かに、そう思っていたとか。
 
そして、その数日後。
また誰かが どこかで噂していたそうだ。
 
 
 
『そう言えばあの日記…いつの間にか無くなってたってね…』
『ああ、聞いたよ。何か若い女の子が読んでそのまま持って出たって聞いたけど?』
『ふぅん』
 
 
 
『…娘さんかなぁ…』
 
 
−END−


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